パソコンは21世紀の恭次郎を堕胎させるか/KETIPA
 
な試みが生じる余地が狭まってくるというか、そういう試みを今やることは無価値だというように捉えられてしまう素地が固まってきてしまうのではないかと感じている(ここはまたちゃんと書きたい)。文学者、詩人の中で。

多分、言葉を素材として用いる別分野の芸術家からは、野心的な言葉の芸術が生まれてくるように思う。ただし、詩人として言葉を(素材かつ文章として)自由に使える人は、もう出てこないような気がする。


1,2年前にちょっとした新国再評価があったけど、あれはものめずらしさだけで終わってしまうのかもしれない。個人的にはそれはもったいないと思う。
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