あの頃、僕らは/前澤 薫
 
す。

彼は僕を貫いた後、
部屋を去った。
そして、
この時もナイフを持っていた。

貫かれた痛みの記憶。
彼は確かに抱いてくれた。

だが、ただそれだけのことだった。
ただ、僕の体が
一時(いっとき)欲しかっただけだったのだ。

さっきから
同じところを何回も歩いている。

闇をにらんでいる。
耳からは何の音も聞こえない。

目だけただぎょろっと
見えないものを見ている。

つばをのみこむ。
鉛を食べたような感じがする。


ベンチに座り、
カッターを取り出す。

乱暴にカッターの刃を
すべて引き出す。

右手首に刃を当て、
横にゆっくり引く。
鮮血がかすかににじむ。

一本線を引いた痛み
記憶とつながる。

涙目になる。
桜の花とホテルの光景が再び浮かぶ。

あの頃、僕らは――

血はもうこれ以上出ない。

時計を見ると四時半で
あと三十分もすれば、
始発が出る。

耳にヘッドホンをつけ、
早歩きで坂を下っていった。

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