毬藻/黒田康之
お辞儀をして、部屋を出て行った。
私は狼狽した。彼の錯誤が致命的な伝染病のように自分を、自分の現実を侵していることを恐れた。だから、私は部屋にある研究書や研究紀要、専門雑誌をあさり始めた。だがなかなかこうした事例は見つからなかった。あきらめかけたその時、研究論文ではなく症例の治療体験をつづった随想の中に私は今回とよく似た事例を発見して安堵した。筆者はその事例についてこう記している。
自身がパラレルワールドの住人であったり、隣人や近親者の生まれ変わり、または入れ替わりあったりという複数の錯誤が混迷のうちに立ち現れることがある。これはあくまでも錯誤であり、名付けがたいが病理である。またそれに伴って、自身が異形のものであるとか怪異であるとかいった幻視が発生することもあるが、それは明らかに錯視であって現実ではない。確固たる現実を喪失していると断言できるものである。それには論理的に考えて明晰な矛盾があるだけではない。それが病理である確たる証拠が存在する。
それを詳述する必要はない。ただ単に断言できるものである。なぜなら、この錯誤において、私はあなたであるからだ。
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