詩を書く人のすべてが詩人じゃなくていい/たりぽん(大理 奔)
 
 
理性・抑制・常識とか教義とか正義とか悪とかという枠は社会にとっては必要なものだが個人の感性の拡大にとっては邪魔以外の何者でもない。それも仕方のないことだろうとは思う。個人の感性の無制限な拡大は、健全な社会の維持にとってやはり邪魔者以外の何者でもないからだ。時に反社会的な悪意ある感性が、より高尚な芸術性を具現化しているように思われるのはこうした「個」対「群」という避けては通れない相対性の中でぐるぐると廻っているからなのだろう。

 なれば「個」の感性を拡大していくために「群」は不必要なのだろうか。それはちがうように思う。仙人のように生き無数の作品を書き上げたとしても、誰の目にもとまらな
[次のページ]
戻る   Point(12)