「存在の彼方へ」を読んでみる2/もぐもぐ
 
り言われても何のことやらさっぱり分からないような感じだが、先にあげたサルトルの「まなざし」と比較してみれば、事態はある程度はっきりするのではないだろうか(アンガジュマンという用語も、サルトルの哲学上の重要タームの一つであったので、この比較はあながち的外れなものでもないだろう)。「まなざし」(視線)は、見るものと見られるものとの間の距離(分離)を前提とする。サルトル的な超越のイメージは、何処か遠くからジッと見つめられているような気がする時の羞恥心である。どこからかはっきりとは分からないけれども、誰かに見られているような気がする、何故か恥ずかしい、といった不意の意識が、その人を硬直させてある行為を出来
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