そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日ごろのような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷たい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は初めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのです。 「桜の森の満開の下」 坂口安吾