批評祭参加作品■僕たちの罪は、どうすれば癒されるのだろう/2TO
終連)という一文によって、「わたし」である「せかい」は、いつか「ひとつの名前」―――「赦し」という徴を、そして「死」を与えることを言明する。それらは同時に「せかい」としての「わたし」にも自ら与えられるのであり、「あさやけ」のごとく光をもって「BAROQUE」としての「まいそう」、あるいはその歪みを自己として生成し続けることでもあるのだ。
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脚注
*1 ガストン・バシュラール「空間の詩学」筑摩書房、2002、196p
*2 ポール・ヴェルレーヌ『Les coquillages』
*3 同、バシュラール「空っぽの貝殻も……隠れ家の夢想をよびさます」199p
*4 なぜなら、その
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