詩人たちに継ぐ/熊髭b
に遊ぶ時間は「世界」である。「世間」が複眼だといったのは、その生成の構成要素が、「世界」という観念的な言葉の時間に比べて、多様だからである。だから、簡単に「世間」を言葉にすることはできない。
今の言葉を取り巻く状況は、「世間」を自らを引き受けることなしに、「世界」の自己を肥大化させている。その結果「世界」は矮小化され、やがて物語りは消費しつくされるだろう。
「世間」を自ら引き受ける。このことが、言葉を辛うじてを成り立たせている第一義であることを忘れてはいけない。引き受けられないから、「世界」に逃げ込むのではない。私たちが「世界」という言葉を使うとき、それはすでに、どこにでも逃げ
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