詩集に纏わるエピソード (1)/深水遊脚
 
した。駒井氏の死をきっかけに、詩集の題名を『時刻表』に改めたのだった。そのようななかでできた詩集であるから、「死」について明示的、暗示的に様々なかたちで描かれている。死は特別なことではない。私たちが忘れているだけで、いつ訪れるかがわからないものの、誰にでも訪れることは疑いようのない事実である。だからこの詩集の「死」の多さにいちいち驚くのはどこか間違っている。普段忘れている死、あるいはいい加減な妄想で済ませている死、それが本当はどういうものなのか、それがこの詩集を通じて得られるものであるように思う。ほぼすべての詩の底流に「死」はあるけれど、直接言い当てているものは少ない。引用部分はその数少ないひとつであるが、あくまで一部分に過ぎない。様々なものに潜んでいる、平穏な生活と地続きの「死」を思い起こす様々な詩行の一部に過ぎない。



(以下、次回以降の散文にまわすことにします。締まりのない書き方になることをお許しください。もうあまり時間がありませんが、少しでも詩集に向き合い、少しでも言葉に残して行こうと考えています。)
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