土手のギシギシと格闘する前に/佐々宝砂
前だ。言葉は、言葉だ。それは人間のものだ。ママコノシリヌグイは、自分のことをママコノシリヌグイだなんて思ってはいないだろう。
私は、私の立場からしか、ものをみることができない。
ときどきうまく言えなくていらだつ。作者の思いすら絶対ではない、すべては相対的なのだと言おうとして、じゃあ相対的ってなんだよ?と問いかけている自分がいる。ふられてしまって悲しいという詩があったとして、ふった相手だって悲しいのかもしれず、ふたりが別れたという事実を知って内心喜びつつ喜んでしまうことに罪悪感を覚える友人というのがいるかもしれず。要するにとにかくとりあえず何はともあれ、世の中はややこしいんだ、原則も絶対もありゃあしないのだ。私はよく、文学作品を、作者の思惑から大きくはずれて鑑賞する。たとえば、武者小路実篤は大バカコメディとして鑑賞する。バカにして読むのではなく、大よろこびで読む。武者小路実篤が生きてたら怒るかもしれん。案外怒らないかもしれん。そのへんはわからん。
さて、そろそろギシギシと格闘してこよう。
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