iiinnocence/
 
「遠くにある、美しい物、例えばそう月なんかを一度君と同じ風に、僕の眸で見てみたいんだ」
顔を顰めながらサンドウィッチの熟れたトマトを取り除いていた君が、沈黙を打ち消すように僕の猫背に喋りかける。僕は其の度に小さな窓に掌を添わせて、今宵もかなしく月を抹消する。

「月なんて、見たこともない癖にどうして存在すると思うの。僕は美しい物なんて、見ちゃいないよ、夜に在るのは真っ暗な寂しさだけだ」

君は首を傾げてまた、黙ってトマトを取り除き始める。空気を震わすフォークの音が、耳に痛い。(ごめんね、だけど、多分、見える物だけが全てじゃなんだよ。)何処かで訊いたような一説を、金木犀が立ち籠める此の部屋でそう、僕はずっと声にだせないでいる。だけど多分君は知っているのだ。洗いざらしの前髪に、為す術をもたず、立ち竦む僕が一番、美しい物、君を直視できないでいることを。
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