希望と絶望あるいは孔子曰く巧言令色仁希し/構造
 
そうとするというだけのことで、
孔子の言う礼節はそれを制御あるいはよい方向に導こうとするものだと考えた。
これはいわゆる経済学における経済人の概念に近いし、道徳的情操論における
アダムスミスの考えにも近い。道徳を押し付けるのではなくって、際限ない欲動に
道徳的な方向付けをしろ、そうすれば結構うまくいくんじゃないかということである。

さてそこで人間が希望という欲動でもって行動しようとするときに絶望は必然である
つまりは永劫ともいえる絶望が待っているわけで、すくなくともそれを世界の次の段階に
向けた永劫の試練として捉えるキリスト教的な考えもよいだろう。とはいえ、果して
それを現実に適用した、文字通りの理想の現実化と捉えるならばその手法が合致して
いるかといえば疑念を投ずるしかない。宗教的な陶酔で突き進んでいるだけとなれば
徹底した現実無視がはじまるだけだからだ。だからぼくはむしろ、楽天的な希望よりは、
絶望への強靭な意志を要求しよう。目を覚ましながら夢を、自分のもっている希望が
どうしようもない業であると厭わしくなったら、それが本物だ。
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