批評という暴力的愛情表現/佐々宝砂
と努力したあまり、結果としてその作品に対する批評への反論になってしまうこともある。ひとつの詩に対する解釈が異なる場合があるのは当たり前で、たとえ解釈が似たようなものであったとしても、批評と批評はぶつかりあうことがある。まるで、ひとりの恋人を巡ってふたりの人間が争うかのように。恋人が人間であれば、どちらかを選んでくれることが多いから、話はそれで済む。しかし詩の場合は難しい、たとえ作者が片方の批評者の意見を認めたとしても、読者の多数はもう片方の批評者の意見の方こそ正しいと主張するかもしれない。ふたりの批評者のどちらが正しいか、誰一人決めることはできない。強いて言うならば、未来の誰かが歴史的観点に基づいて決めてくれるだろう(それだけ長くネット上の詩と批評が生き延びたら、の話である。もしかしたら、根気強く長く続けたもん勝ちかもしれないぞ)。
私は釈明しない、無罪を主張しない。私の批評は酷評になる場合がある、私は批評に対しきつい反論をする場合がある。私は自分の有罪を認める。しかしそれでもなお私は主張する、私の批評がどんなに暴力的に見えようとも、その根元的動機は、愛だ。
戻る 編 削 Point(22)