百万塔/カスラ
いう「言葉」を伝えた、何れもタイムカプセルである。この際、この経文で示されている哲理が、宗教的価値として人類に有用で貴重なものであるか、などということは不問としよう。まあ、どうでもよいとして、悠久の時を隔てて、正確に「言葉」が伝承されたということの価値は、骨董としての「物」の価値と、何か決定的に違うことに気がつく。例えば、この米粒ほどの舎利が本物の遺骨であったとしても、そこにその人はいないのである。しかし、先の仏教説話の(書き言葉として伝承されたかどうかは別として)、物語の言葉の中に、釈迦なる彼は、間違いなくいる。生きて動めいている。それは非物質としての「思想」や「精神」が非物質の言葉の中に在るという、当たり前過ぎるこの不思議。
「言葉」、この中に(だけ)唯一、時空を越え生命を乗せられるということ、言葉こそ、物質宇宙とは別に、意味としての宇宙を展き現出させる、ということの不思議を今さらながらに思う。
※宗教としての仏教をなんら言明した文章ではありません。
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